【ブリュッセル発】ルクセンブルクのすすめ ボックの砲台


ブリュッセルから行くルクセンブルク鉄道日帰りの旅!
ルクセンブルク観光の見どころをご紹介します。

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■ ボックの砲台ルクセンブルクの街を守ってきた砲台。

軍事的利点から中世の諸外国がこぞって手に入れたがったかつての要塞都市。現在でもその広大な地下要塞は世界遺産として一部が保存され、一般公開されています。
723年古代ローマ時代からこの地はフランスのランスからトリアーに抜けていく街道途中にある砦として使われていたものであることが分かっています。ルクリンブリュクLucilinburhuc(小さな城)と呼ばれていたこの場所をアルデンヌのジークフリートがトリアーの963年サンマクシマン修道院と条約を交わし、手に入れたときから残るボックの砲台は時代によって様々な勢力に翻弄され続けてきたルクセンブルクの歴史そのものといえます。
谷を見下ろせる断崖にジークフリートは居城を構え、要塞を築きます。礼拝堂は魚市場の近くに建てられ、現在同じ場所には聖ミカエル教会を見ることが出来ます。軍事目的としても格好の場所・地形にあり、後に「北のジブラルタル」と称される事になるルクセンブルクは15世紀(1473年)にはブルゴーニュ公領、(1477年)ハプスブルク家、16世紀中ごろ(1555年)のスペイン領ハプスブルク家、17世紀末のルイ14世率いるフランス、18世紀初頭のオーストリア領ハプスブルク家、17世紀後半のフランス・ナポレオン軍、プロイセン勢力などに統治されていきますが、要塞としての用途は重要度を高め続け、領主が変わるたびに破壊と建造が続けられました。
1644年、スペイン軍によって城の地下道が掘られました。

現在旧市街とボックの砲台として入場できる部分を繋いでいる橋は城の橋(Pont du chateau)と呼ばれ、1735年オーストリア軍によって建造されたものです。それ以前には木造の跳ね橋があり、敵からの進行を食い止めるために旧市街を隔離出来るようになっていました。この頃にはカズマット要塞は全長23km、50の大砲と1200人の兵の他、馬小屋、ベーカリー、屠殺場を収容する空間を持つようになっていたといいます。ボックの砲台は西から東に大ボック、中ボック、小ボックが建造されました。時代が変わるにつれ戦争で使われる武器も火を使用したより残虐なものになっており、要塞もそれに伴って強化する必要に追われたのです。

1684年にはルイ14世支配下のもと、軍隊技術者であり、軍事建築家のヴォーバンが1か月の包囲戦ののちルクセンブルク市を攻略する。ヴォーバンはカズマットの拡張を実行し、オーストリアが領主となると、オーストリア軍によって1737年から1746年にかけて地下通路、ギャラリーが造られました。ちなみにですが、ヴォーバン(セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン)はフランスでとっても有名な軍事建築家で、要塞攻城法と要塞築城法を確立した軍隊技術者でもあります。
ボック砲台の防御力のおかげで1794年フランス革命戦争の折にはフランス軍の包囲に対して7か月も持ちこたえることが出来、主舞台が降伏した後も、要塞の壁は破られていなかったのです。フランスの軍人や技術者はジブラルタルに次ぐ最強の要塞だと称しました。後に「北のジブラルタル」と呼ばれる所以となったエピソードです。
1875年、カズマットのほとんどは破壊され、17kmの地下壕が現在まで残っています。
1933年、第二次世界大戦中は地下シェルターとして35,000を空襲から守る役割を果たしました。

現在入館できるボックの砲台には、フランスから寄贈されたルイ14世時代の大砲があり、かつては軍事的に街をまもるため、水没させる計画もあったというルクセンブルクの美しい渓谷の風景を見下ろしています。

入場料:3ユーロ/大人 2.5ユーロ/13歳以下
開館時間:連日10:00-20:30
公衆トイレ有り







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